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直言! 受験道コラム
受験勉強を難行苦行の「鍛錬」から解放しよう! 私が「受験道」の“道”案内をします

受験道8 私の「受験勉強」 まとめ〜本当に大事なこと

 私は、開成中学・高校時代の6年間、生活時間のほとんどを投げ打って、つまり、心の奥ではやりたいと思っていたことをかなり抑えて、丸暗記型の、何よりも「集中力」をベースとするテスト勉強と受験勉強を続けました。

 今同じことをやれ、と言われても絶対できないでしょう。それは、若さゆえの一途さと体力・スタミナの問題も去ることながら、「テスト勉強/受験」はもちろん、ある特定の「世界」にどっぷりはまりこむことをしなくなっているからです。つまり、私がしていた「勉強」はある特殊な世界ではすごいことであったかも知れませんが、それ以外の外の世界には簡単にはつながっていかない、バーチャルな世界にどんどんはまっていって、「奮励努力」していたのです。

 その中で結果として「東大合格」が残るわけですが、現実的には、まだ世の中がブランドにしているほど「東大卒」なる学歴のパワーはなく、とりわけ私がかかわっている分野では、もっと学歴が威力を持ったらなぁ、と思うほど実力主義です。厳密に言えば、「東大卒」は、官僚や一部の企業など、卒業後のコースとセットにならないと効果を発揮しません。(「集中力」が付いたこと自体が財産だと思う方もおられるかも知れませんが、人間の能力というのはそれを「何のために」使うかとセットになって初めて意味を持つので、コントロールができるようになったのはその後だいぶ人生経験をつんだからです)

 ですから、私が使ったばく大なエネルギーはむだ遣いの部分があったと同時に、自分のあり方・生き方にも影を落としました。私の集中丸暗記・詰め込み方式では、知識がしっかり定着しないのです。例えば、世界史で覚えたはずの細かい人名や事件名や年号など、今全く記憶にありません。もちろん、断片的に残った知識もありますが、それを組み合わせて有効活用する仕方が(人生経験を積むまで)長いことわかりませんでした。

 さらに、私が「とりあえず」頭に入れた知識は、リアルな現実と結びつきませんでした。私は、高校時代毎日のようにニュースになっていた学園闘争(学生・生徒が封建的または強権的な学校側に反抗した)に関する記憶が全くと言っていいほどありません。必死で覚えていた社会科の科目はどれも関係あったはずなのに、です。関心がなかったというより、直接「大学受験」する意味を考えることを迫ってくる事件を無意識的にシャットアウトしていたのでしょう。

 学ぶよろこびもかき消されていました。中学時代にはまだ残っていた「素朴な疑問」も、心の奥にしまい込んで、東大に入った頃には、復活させようと思い出しても、かなり懸命に引っ張り出してこなければなりませんでした。私は、バーチャルな「テスト勉強/受験」の世界で、現実の、または仮想の(時には自分自身の最高成績と)競争相手に勝つことばかり考えていました。勝つと自己満足していましたが、常に誰かと争っている、というのは精神的にとても疲れます。関心のあることを「学習」し、新しいことを「知った」「わかった」歓びに比べると、「快感」の質が全く違う、未来につながらない「勝利感」でした。

 そんな中で私が失ったものは、「自立」して生きることでした。仮に東大受験を人生の中で選択するにしても、自分の確固たる意志で、目的をしっかり持っていたらまた違ってくるでしょう。ところが私の進路決定は、きわめて「他律的」でした。開成学園の雰囲気にそのまま流され、ちょっと視点の違う情報には自分から避け、自分のやりたいことが形をとってくるのは、大学を出て大学院を中退してからのことでした。自分には「テスト勉強/受験」的な世界でしか可能性がないと思い込んでいましたから、自分自身を信じていなかったし、自分自身を肯定もしていませんでした。

 自分を肯定的に受け入れられない人間は、他人を受け入れること(共感能力)などできません。私がゾッとするのは、開成学園の同学年の中で、開成の校風にあわずに、あるいは授業についていけずに、転校していったクラスメートたちに対して、明らかに軽べつの感情を持っていたことです。学校に逆らってアウトロー的な行動をとるクラスメートに対しても同様でした。自分だって、とりえである成績をとってしまったら、よって立つものがないくらい不安定であったのに、です。

 これは、いわゆる「エリートの傲慢さ」に通じます。常に「お上」「天下国家」の視点からしか人や社会を見ることができない。切実な想いでやって来た陳情者の声を真摯に聴こうとしないで事務的に処理する官僚のイメージです。個人よりも、いつも国とか組織とかが優先され、本当に大事なことを見失ってしまう。私もそうなりかけていました。

 本当に大事なこと……私はそれがうすうす分かっていなかったわけでもないのです。高校2年の時、私は、生徒会の雑誌に超エリート優等生が「遊び人」に変身してみんなを驚かせる、というストーリーの小説を書きました。10代に味わっておくべき、友だちとのケンカや恋愛ごっこ、仲間意識や人間関係のルール、思いっきり自己表現すること、いろんな人に会って柔軟な発想を知りたくさんの「物差し」を持つこと、そして自尊心……私の「忘れ物」は、たくさんあって、後からひとつひとつ時間をかけて懸命に取り戻しやり直していったのでした。

 「集中丸暗記・詰め込み方式」によって生き方を見失う、というのは私に限らず、程度の差こそあれ、受験にかかわる人たち全てをとらえるものです。私が持っていた、クラスのトップを維持するための強迫的ともいえる完全主義には、みんな多かれ少なかれ、はまっています。「受験勉強」の価値がバーチャルに肥大化していて、その価値を実現できた=東大等に合格した人、とその価値を実現しなかった人の両方をむしばんでいます。価値を実現できなかった人は、自分を全面否定された気分になり、そこからなかなか解放されず、自分は何をやってもダメなんだ、と可能性を信じられなくなったりします。この傾向は私の時代よりも強まっています。

 こんな状態から脱け出しませんか。受験をするにしてもしないにしても、勉強、いやあえて「学習」と言いましょう、「学習」が知る歓び・理解する歓びに満ちたものになり、受験でどんな結果が出ても、やったことが人生を豊かにするのに役立つような「学習法」をいっしょに見つけませんか。まず、英語から、私の長い人生の軌跡から生まれた「伊藤式」で学習し直してみませんか。

■受験道コラム バックナンバー

・受験道1 「修行」からの解放
・受験道2 今年の東大合格者の動向
・受験道3 私の「受験勉強」 中高編 その1
・受験道4 私の「受験勉強」 中高編 その2
・受験道5 私の「受験勉強」 中高編 その3
・受験道6 私の「受験勉強」 大学編 その1
・受験道7 私の「受験勉強」 大学編 その2