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受験道4 私の「受験勉強」 中高編 その2

 私が開成中学・高校時代にやっていた勉強法は、つきつめれば、予習・復習に大量の時間をかけて授業を整理して体制を整えておき、試験直前には霊的なまでの集中力で強引に頭の中に試験範囲を詰め込む、というものでした。その結果、中1から高3まで、クラスでは一回もトップを譲ることなく、また学年では、1位(3回)か2位の成績を収めていました。

 こうなると、その連続記録の維持がどんどん自己目的化していきます。東大合格という大義名分もさることながら、ここまで来たら高校卒業まで記録を途切れさせたくないという意地は、記録が続けば続くほどエスカレートしていったのです。

 ですから、ただテストの点数を取っていればいいというものではなく、教員によっては、平常点と称して、主観的な評価をする人も少なからずいましたので、そういう教員にはゴマをする必要も出てきます。できるだけその教員にとって「よい子」でいるように努めることさえしました。

 その始まりはまだ覚えています。中学1年の英語と化学(開成では中学から「理科」ではなく物理・化学・生物・地学と別れて授業をしていた)の時間に、それぞれ「どうして英語の疑問文の作り方は2つあるのか、日本語では『か』をつけるだけなのに」「溶解度っていうのがよくわからないんですけれど……」と質問をして、「くだらない質問をするんじゃない」と怒られたのです。特に前者は、後に英語学習上とても大事な内容を含んでいたとわかるなど、教員としてあり得ない対応をされたことになります。

 しかし私は、これで心証を悪くしては大変なことになるかも……と思い直し、特に怒りの程度が激しかった化学の初老の教員には、昼休みにわざわざ訪ねていって、「先ほどはくだらない質問をして申し訳ありませんでした」と謝ったのです。

 そんな模索を1年近く続ける中で、私の哲学は簡単に変わりました。「素朴な疑問」は極力抑えてとにかく覚える(怒った英語の教員は「英語はそうなってるんだから覚えりゃいいんだよ」と言った)、教員の教え方が悪くても自分で何とかする、教員が気難しいまたは学習態度を評価に入れる場合はそれに合わせた従順な態度を取る……この姿勢が完成したのは中学3年の時でした。

 というのは、中学3年の時に象徴的な出来事が起こっているからです。まず当時、受験競争にもう少し強い学校にしていくかどうかで教員内部で内輪もめが起こっていて、それに関連して私たちの学年の数学の教員のひとりが解雇寸前になりました(翌年復職)。その結果、中学3年の1学期の始業式の日、私が1組の教室で待っていると、1組担任になるはずだったその数学の教員ではなく、物理の教員が現れてみんなびっくり仰天しました。

 困ったのは私です。その数学の教員なら、対応策がわかっているけれども、物理の教員は、どちらかというと私を好いていない方に属する、さぁどうしよう? 私が選んだのは、菓子折りをもって友だちも連れて、新しい担任の家へ挨拶がてら遊びに行くことでした。見事にその作戦は成功し、徐々にその物理の教員にも信用されていきました。

 一方私は、生徒会の役員をやっていて、昼休みに販売に来るパン屋から値上げしたいという申し出を受けて審議することになりました。弁当を持たない者(と弁当だけでは足りない者)にとっては死活問題ですから、生徒はみんな反対です。そんな時、私は生徒会担当の教員(自分の学年の体育の教員)に呼ばれ、肩を抱かれて「なぁ伊藤、パン屋さんも大変なんで、値上げを認めてやってくれんかのう」と言われました。私は、これは信頼を得るチャンスとばかりに、生徒会を引き回し、理屈をこねて、強引にパンの値上げを認めさせてしまったのです。

 私は、中学の卒業文集にさえホンネを書きませんでした。受験勉強は大学へ受かるためではない、人生のために後で役立つ、などという超優等生的な空論を書き並べて全教員のごきげんをとったのです。半分は本気でそう信じつつあった気もします。

 後日談です。私は、10段階絶対評価で、体育以外は、10か9、ときどき8という成績をとっていたのですが、体育が7で時には6になってしまうため、トップ争いの大きなマイナス要因になっていました。上記の体育の教員は、私のその辺の苦労を察して、いつも「悪いのぅ」と言ってくれて、とうとう高3最後の学期で、10を付けてくれたのです。いい教員だった、とも言えますが、それ以上に私は不純でした。

 私は高校へ進んで、さらに問題を抱えることになります。その分析については次回に。

[つづく]

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