「一般論」のこわさ
「コーヒー入れて!」第41号 07年3月 三鷹市発行

 

 過剰な「一般化」が、この社会を住みにくくしている。

 例えば、私は趣味である音楽を中心としたブログ「ヒット曲が世界を変える」をやっているが、実際に曲を聴きもしないで「アイドルはレベルが低い」「演歌は古い」「ビジュアル系ロックは見た目だけ」などと決めつける人が実に多い。あいまいな分類やジャンルごとに「よくある論調」を持ち出して、それを疑わない。きわめて「もったいない」話で、予断なしに聴けば自分の内面から新たな力を引き出してくれる曲に触れようとしない人たちがいるのは残念だ。

 よくある言い回し、すなわち世間を支配している価値観を「一般論」と信じて無自覚に従い、自分の頭で考えずにいる、という傾向は私たちの生き方にも及んでいる。

 最近、閣僚が「結婚し2人以上の子どもを持ちたいという」希望が「健全」だと発言し、物議を醸した。この「健全」または「幸福」の指針は、日本社会にまだ世代を超えて深く浸透していて、異性と結婚し、(時には男性の親も含め)同居して子どもを作り、女性は家事・男性はサービス残業にいそしみ、立派な家庭を作ることが人生だ、という神話は根強い。

 しかし「人生」も「幸せ」も、人間の数だけ種類があるはずで、現実的にもこの神話通りの人生を送っている人の方が少なくなりつつある。しかしこの神話のイメージは強力で、さまざまな理由で結婚しない人たちに対して、周囲は強制に等しいおせっかいをやき、非難に等しい噂を立てる。

 こうした一般論に対して、個々の生き方を対置することが、再び困難になりつつある。例えば「日本人は勤勉である」と言っても、そんなこと全員に当てはまるはずがない、と容易に想像できた。人は一人ひとり違っている、ひとくくりにして論ずるのは危険だ、と考えることができた。それが、公の場でも一般論で子どもの数まで強く要望される状況になってしまった。

 もっとも、「○○は……だ」という一般論の「○○」が、日本人とか男性といった、大きな集合であれば、まだ疑わしく思う人もいる。しかし、この「○○」が、世間に正確に認知されていないか、知られていない集合、それも小さければ小さいほど、私たちはまるごと信じてしまう確率が高まる。日本になじみのない国出身の人たち、有名でない団体に属する人たち、あるいは私のような同性愛者などは、すでに流布している偏見もミックスされて、誰かの個人的な見解があっという間に「一般論」に化ける。

 同性愛者を支援している「すこたんソーシャルサービス」で私が深夜、バッシングかもしれないと恐る恐る電話を取った時、異性愛者からの単純な問い合わせとわかってホッとしたのもつかの間、深夜の電話を遠慮していただけるようにと告げたら「ゲイの方は夜更かしだと思って」。同性愛者だって、いろんな人がいるのに。

 こうした「一般論」が幅を利かせるのは、「安心」したいからだ。特に未知のものに対しては決めつけてしまえば自分にかかわりのないこととして、見なかった・聴かなかったことにできる。いや、既知であっておかしくないはずのことにも、それは広がっている。恋愛についても、デートコース、会話術、告白のタイミングと方法……全てがマニュアル化されて、雑誌やインターネットで紹介され、みんなそれを基準に行動して、自分だけおかしくはないことを確認する。人と違うことは危険でさえあるのだ。社会のあらゆるところで「いじめ」「ハラスメント」が起こるのもここから始まる。

 おまけにメディアが「一般論」を大量に報道して、強力に浸透させている。タレントであれ、一般市民であれ、「Aは極悪非道」「Bは立派な人」など、個人のイメージを作り上げることなどお茶の子で、テレビ・雑誌からインターネットに載る時には、もっと強固な事実にさえなってしまう。

 私たちは「○○は……だ」という一般化をやめて、具体的な人やものを主語にして語っていこう。決めつけによって失われる関係があまりに「もったいない」から。