男だけの育児

 

男だけの育児
 

全米でベストセラー!
ロサンゼルス・タイムス
チャイルド・マガジン ブックオブザイヤー受賞

ゲイ・カップルが問う、本物の親になる方法。繊細にして剛健。ニューヨークで活躍するゲイの人気作家による渾身の子育て記


ジェシ・グリーン Jesse Green=著 伊藤 悟 Ito, Satoru=訳
飛鳥新社=刊
本体1890円(税込) ISBN4-87031-465-7

 

■著者ジェシ・グリーンさんからのメッセージ
「もっと私たちらしく」

 私が『男だけの育児(THE VELVETEEN FATHER)』を書いたとき、他の言語に翻訳されることを想像しなかった、などと言えばウソになるでしょう。そもそも、この本自体が、「翻訳」をテーマにしているようなもので、既存の家族の役割やイメージを超えて、より広い世界に遭遇するという、新しい状況への移行が書かれているのですから。

 私は、フランス語版かドイツ語版かスペイン語版、あるいはヘブライ語版でさえも出版されるかもしれない、と考えていました。そうした国々とは、少なくとも言語的・文化的に、私が扱っている題材との共通点が(少しでも)あるのはもちろん、まとまった大きなゲイ・コミュニティがあるからです。ところが、いまのところ、この本が翻訳された唯一の言語は、私が最も予想していなかった日本語だけです。

 私は、言語的な大きな差異もさることながら、このことに驚きを隠せません。それは、私が会ったことのある日本人のゲイから来るものです。ただ、彼らをゲイと呼んでしまっていいものかどうか……。彼らは、少なくとも男と寝ますし、彼らを取り巻く文化の中で、自分たちは異質だと感じています。これは、多くのアメリカの同性愛者が感じているか感じていたのと同じです。

 しかし、彼らが語る彼らの内面は、別の意味で「異質」で、まるで彼らの体内にある「月の石」を突然見せられたかのようです。なにしろ、彼らは男性と寝るけれども、女性と結婚するつもりである、ということを矛盾するものとしてはとらえていないのですから。男性を愛するが、そのことを決して家族や周囲には話さないこと、自分の愛情と自分の日常生活とを区別して暮らし、それで満足していること、これらも矛盾なく受け入れてしまっているのです。

 私は、私がたまたま出会ったごく少ない例だけから、日本のゲイのあり方を理解している、などと言うつもりはないし、そんなことができるはずもありません。同様に、しかし正反対の理由で、アメリカのゲイのあり方を理解している、と言うこともむずかしいでしょう。こちらは、例がありすぎて、一つのイメージにまとめ上げることができないのです。しかし、年齢・階級・性格が私に近い多くの人々に関しては、アメリカのゲイたちは、体験的に「統合」を志向していると言っていいでしょう。つまり、私たちはもう、花屋とかヘアーサロンとかオルガンが置いてあるこぎれいな空間といった伝統的なゲイの「砦」の中に閉じこもっていたくはありません。そのかわりに、一般的なアメリカ人がしているように、自分たちの希望の実現に賭けたい、と思っているのです。言いかえれば、私たちの生活をより大きな社会に合流させていきたい、ということにもなりますが、これは、決して、私たちがより「ノーマル」になりたい(=社会に合わせて自分を曲げて同化したい)からではなく、私たちがもっともっと私たちらしくなるために、社会が「※ノーマル」であること(=ゲイが自分らしく生きられる状態になること)を求めているからです。

 もちろん、「統合」は、何と何を統合するのかをはっきりさせるために、最初にきちんと分ける(例えば、同性愛者と異性愛者の力関係の差を一時的にそうした言葉で表現するとか)ことがなければ、意味はありません。アメリカでは、その「分離」が、じゅうぶんすぎているくらい達成されているため、次の段階として「統合」を推進することは、混乱を招き、運動に敵対するのではないか、と考えるゲイやレズビアンがたくさんいます。とりわけ、初期のゲイ解放運動を闘った人たちの中には、自分たちが多くの犠牲を払って獲得したことの価値が、低く見られてしまうかのように感じている人もいます。

 私の本に関しても、文章や公的な場での議論において、私が親になることそれ自体が解放運動開始時の基本的な原理の侵害である、と攻撃されたことがあります。私は、それに対して、「もしゲイが自分自身の選択をすることが許されないのならば、ゲイ解放運動の目的は何だったんですか」とか「あなたは、私たちに、あなたがしたのと同じ選択をしてほしかったのですか」と言うしかできないと思っています。(伊藤注=この段落に関しては、『男だけの育児』の中で、子どもに近づかずに〜ゲイは小児愛だという偏見があるので〜差別と闘ってきたゲイたちが、子育てに拒否反応を示すところを参考にして下さい)

 そういう人たちがした選択の多くは、かろうじて「選択」になってはいますが、そうせざるを得なかった急場しのぎの方法として以外は勧められないものなのです。ゲイが親になることを例に取ってみましょう。父親になっているゲイはけっこうたくさんいます。そのほとんどは、予想に反して、50歳を越えています。ゲイが親になることは、新しい現象ではないのです。しかし、ここにこそ、問題点があります。年長のゲイの父親たちは、同時にゲイであり父親であったわけではなかったのです。彼らは、まず父親になり、つまり、女性と結婚し、それから(たいていはかなりの時間の後に)、自分がゲイであることに気づいたわけなのです。例外なく、彼らの家族たち(裏切られた妻と、引き裂かれた子どもたちと、大きなショックを受けた彼ら自身)は、その経過によって傷つきました。でも、ひとたび真実(ゲイであること)が明らかになってしまえば、その傷を避ける方法はなかったのです。

 一方、年若いゲイの父親たちは、みんな、まずゲイであることを自覚していました。ゲイであることに気付くことによって、いろいろな混乱が起きたかもしれませんが、子どもを持ちたいと思うようになる時までには、自分をしっかり受け入れるようになっていたのです。子どもを持とうとする時、生涯のパートナーを得ている者もいれば、独り身の者もいれば、パートナーのいる状態とひとりの状態とを行ったり来たりしている者もいます。しかし、どんな場合でも、彼らが、自分たちがベッドでしたいと思うことに関して、混乱したり罪悪感を持ったりすることはありません。彼らは、社会に同化するためにではなく、異性愛者たちがとっておいて浪費しているのと同じ(子育ての)歓びを享受する(同じ責任も果たす)ために、子どもを求めているのです。

 「浪費する」と言うと、聞こえが悪いかもしれませんが、異性愛者たちが抱え込む気がない(あるいはできない)機会に喜んで応じること以外に、アンディと私が親になる方法はあったでしょうか。これは、私たちの子どもの生みの親たちを責めているのではありません。それどころか、私たちは、子どもを養子に出してくれたおかげで、私たちがかわりに子育ての機会と苦労を得ることができて、生みの親たちに対して感謝しているくらいです。とはいえ、私たちゲイカップルが、私たち自身に関してうまく表現できていないとしても、新しい社会の基準を創る「物語」を表現しようとしていることがわからないと、話は、尋常でなくややこしくなることでしょう。それが、私が『男だけの育児』を書いた理由のひとつです。

 こうしたことは、私自身が住む社会とかなり違った構造の社会では、どんな意味を持つことになるのでしょうか。確かに、私が子育てから学んだ、「子育ては誰でもできるが、すべての子育てに適用しうる法則はない」という事実には普遍性があります。また、エーレズとルーカスは、今7歳と5歳ですが、ふたりがもっと小さかった頃私が気づいた(そして本に書いた)現象も、今も続いています。それは、私たちが性的指向に関係なく他の家族たちに家族としてすぐに受け入れられることと、政治的指向に関係なくゲイにはなかなか受け入れられない、ということです(ゲイが養子を持つ権利は主張されるようになりましたが)。

 私たちは、最も急進的な右翼の異性愛者をのぞけば、ほとんどの人たちから、関心や支持や賞賛を受けています。その右翼たちは、以前は、私たち同性愛者がどんな行動をしているか(セックスも含めて)を知らなかくて、私たちを恐れていたのですが、今や、私たちの家族に子どもたちがいるという事実によって、その感情も鎮まりつつあります。誰もが、親がすることを知っています。私たちは洗濯をします。福音主義のキリスト教徒や、正統派ユダヤ教の人たちの中にさえ、私たちと親しくしている人がいます。知識があるところには、恐怖心が入る余地はほとんどありません。そして恐怖心がなければ、嫌悪感は燃え上がりません。実際、これまで私たちのふたりの子どもたちが辛抱しなければならなかったいじめは、父親と母親がいる男の子から「ママがいないじゃないか」とからかわれたことぐらいなのです。状況は、確実に変化しています。

 私の本のテーマは、社会の「主流」に入り込んでいってそれを作り変えることです。ですから、私は、この本が、なぜ「主流」をかたくなに守ろうとしているように見える社会で最初に翻訳されたのだろうなどと愚問を発するつもりはありません。作家というものは、自分の最良の読者がどこにいるかなど決してわからないものですし。だから、たぶん、この本に書かれている話は、あなた方の社会に対して、例えばイギリスの社会に対する衝撃よりも大きな衝撃を与えることでしょう。イギリスでは上流階級の人たちが、伝統的に、全寮制の男子校という、同性愛に寛容なことがそれほど隠されていない学校に男の子を委ねたりしているくらいですから。

 しかし、ショックを与えることは、全く私の意図ではありません。ことによると、私の家族の日常生活は、誰にもショックを与えないでしょう。実際、食事、勉強、ゲーム、雑用、読書、入浴、そして幸せな睡眠……のどこがショッキングでしょうか。私の書いた本の日本語版から次のようなことをくみ取ってもらえれば幸いです。まず、ゲイであることの不思議さを越えて、人間であることの(より大きな)不思議さがあること、そして「主流」は、たとえほとんどの人がそこに属しているとしても「主流」でしかなく、見方を変えれば全く別の流れかもしれないし、それは、今計り知れないほど弱い流れになりつつある、ということです。

※「ノーマル」について
 “normal”(ノーマル)は、よく「正常」と訳されますが、日本語の「正常」にはかなり価値判断が入っており、「異常」の反対語で、異端を排除したものというイメージがあります。ところが英語の“normal”は、だいぶ使い方が違います。その基本的な意味は、「基準(norm)にじゅうぶんかなっている」ということで、「社会がノーマルな状態である」といえば、社会が、そこに住む全ての人にとって住みやすいかどうか、という基準にかなっている、という意味になるのです。だから、最近よく使われる「ノーマライゼイション」という言葉は、社会をあらゆる人にとって住みやすい状態に変えるという意味で、例えば、障害者・外国人・同性愛者などといった少数派が多数派といっしょに暮らせる社会を創っていくことになります。今ある社会に「正常」ではない少数派を強引に同化・適応させていくこと(優性思想)では決してありません。したがって、このメッセージでジェシさんが使っている「ノーマル」も、この文脈で理解されるべきで、同性愛者が無理をして異性愛中心の社会に合流していくことではなく、日常生活の中に同性愛者がいても全く当たり前である社会を創っていくことを意味しています。